仕事を変革する<計画とマネジメント>の技術ノート

ぼくのオールタイム・ベスト

ぼくのオールタイム・ベスト

自分の好きなものを語ると言うことは、ある意味では自分自身を語ることに等しいのかもしれません。 ここにあげたのは、ぼく自身のオールタイム・ベストです。その片寄り具合をみると、自分自身の偏りをあらためて鏡に映しているようで、ちょっと気恥ずかしいですね。

まだ未完ですが、これから少しずつジャンルや一口解説を付け加えていこうと考えています。


[目次]


音楽(西洋古典音楽) ベスト12

順序は年代順です



ジョスカン・デ・プレ 「ミサ・パンジェ・リングァ」

ジョスカンの遺作と言われている作品。真に音楽史に残る傑作だろう。4声部の動きの精妙さもさることながら、彼が得意とする2声のからみ合う部分が随所にあり、これが本当に素晴らしい。対位法の極致と言うべきだ。また、Credoの中心であるEt incarnatus estの部分の4声の縦にそろったコラール的和声の素晴らしさも筆舌に尽くしがたい。

推奨すべき演奏は、まず、タリス・スコラーズだろう。一糸乱れぬ音程の正確さ、リズムの安定が見事だ。またある意味ではこれと好対照をなすアンサンブル・クレマン・ジャヌカンも面白い。両方聴く価値がある。
しかし、どちらの演奏も一点だけ不満がある。それは最後の第3Agnus Deiの扱いで、これを伝統的解釈にとらわれたのか、ディミヌエンドにしてしまっている。これは、かつて酒井多賀志氏がやったように、祝祭の音楽として天上的なフォルテで演奏するのにふさわしい楽章だと思う。



パレストリーナ 「ミサ・ブレヴィス」

4声体で書かれたポリフォニー音楽の中で、最高の傑作だ。いや何声部であろうとも、これを超えるようなリチェルカーレがいまだかつて書かれただろうか。イタリアの作曲家らしく、とても息の長い旋律をモチーフに、上下左右にからみ合い色彩感をつくりながら、全体に明晰で明るい太陽の光の色を印象として残す。最初のKyrieや最後のAgnus Deiの美しさは、“筆舌に尽くしがたい”という平凡な言い方しかできないことが残念なほどだ。しかしもちろん、たとえば普通はえんえんと長くて退屈に思われるCredoも素晴らしい。

この曲は、ぜひ女声も混ざった混声合唱で聴きたい。その方がかえって透明感が増すように思う。そういう点では最上の演奏は思いつかないが、次点としてタリス・スコラーズはまあまあ良い。もう少しねばりがあるともっと良かったと思うのだが。

パレストリーナでは、このほかに個人的には「雅歌」もとても好きだ。曲によってはこちらの方が好きなくらいだ。全体としては曲数が多く途中で若干飽きてしまうのが難点ではあるが。



シュッツ 「十字架上の七つの言葉」

ドイツに初めて本格的なバロック音楽をもたらしたシュッツの作品は、やはり晩年の宗教音楽が素晴らしい。「音楽による葬送(ドイツ・レクイエム)」「ヨハネ受難曲」も真に傑作だが、個人的好みではやはり「十字架上の七つの言葉」にとどめをさすように思う。

この曲は、二重の扉にはさまれたサンドイッチのようにはさまれた構造になっている。これはちょうど二重の祭壇画のような作りである。序曲と終曲が4声合唱、そして序曲と終曲が弦楽合奏で、これらを額縁のようにして、真ん中に4福音書からとったオラトリオ形式の音楽が作られていく。レチタティーヴォをとる福音史家がソプラノ・アルト・テノール・バスの男女4人からなっている点が珍しいが、これはすなわち4人の福音史家をあらわしているのである。これがすなわち、この音楽を多彩にしている大きな特徴である。

入手可能な演奏の中では、マウエスベルガー指揮ドレスデン十字架合唱団のものが悪くない。ボーイソプラノなので、そこで好みや判断は分かれるだろうが、ていねいな作りの演奏だと思う。



ヘンデル 「メサイア」

ヘンデルは19世紀ロマン主義の時代に妙に崇拝されすぎたおかげで、かえって時代のほこりをかぶってしまった人だ。とくにこの「メサイア」は、なまじ“ハレルヤ・コーラス”が有名になりすぎたために、全体としては敬遠される曲になってしまったらしい。

しかし、ヘンデルを荘厳だとか重厚だとか形容するのはあたらない。メサイアを虚心坦懐に聴けば分かるとおり、ヘンデルはとても軽く、生き生きとした楽曲を作る人なのだ。ヘンデルの演奏はリズム感が命である。それは、バロック音楽が基本的には舞曲から成り立っており、そしてそこに真髄があることの証明かもしれない。とくに、ヘンデルの手腕は声楽曲で本領を発揮する。自分で唄ってみると実感できるのだが、ヘンデルの楽曲は歌というものが本質的にもつ肉体的・官能的な喜びを十全に発揮できるように作られている。この点が、合唱さえ器楽的に扱いたがるバッハなどとの最大の違いだろう。

演奏は誰が良いか、少し迷うところだ。ガーディナー指揮のものは良いが、イギリス人の演奏は概してビートが単純で軽すぎる欠点がある。もう少しリズムに深みがある方が、このドイツ出身でイタリアに遊学した作曲家の特質をよく出すように思う。

ヘンデルは他にも、「ディキシット・ドミヌス」や「風よ静まれ」などのカンタータ、ヴァイオリン・ソナタ第一番やチェンバロ曲集など好きな曲が多い。ヘンデルの特長は官能的でありながら典雅である点だろう。そういう意味ならば、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」などはさらに優美な特質を合わせ持っていて、素晴らしい。



シューベルト 即興曲集 作品132

ひどく疲れたときには、シューベルトの音楽が良い。何か重荷を肩から下ろして、大地の上に寝転がったような、ほっとしたものを感じる。そこには疲れと孤独を知る人の、しみじみとした慰安がある。

即興曲集は、たぶん文字通り即興的に作曲されたものなのだろう。この曲を演奏してみるといやに繰り返しが多いことが分かるが、それは即興なるがゆえの指の運びなのだ。ここにはドイツ的な和音とリズムに彩られた、平明な嘆きと慰めがある。

演奏はケンプやエッシェンバッハも良いが、バックハウスのものが素晴らしいと思う。この人は実に音が美しい。そして、バックハウスで聴くと、この単純な小曲集がいかに秀れた音楽かがよく分かると思う。



ブラームス 交響曲第1番

あらゆる交響曲と名が付くジャンルの楽曲の中で、この曲が一番良い。たぶん意見を異にする人は多いと思うけれど。

なぜそう思うか。まあ好き嫌いにしょせん理由はないのだけれど、この曲はソナタという形式の器に盛り込まれた歌心の内容とのバランスが完璧に近いからだ。ここにはブラームスの良い点が詰め込まれている。甘い、ロマンチックな憧れに満ちた旋律、よく練り混まれたオーケストレーション、妙に律儀なくせにしょっちゅう破格な形式感、そして緩急明暗のリズミカルなコントラスト。まあ最終楽章の主題がベートーベンの第9交響曲の有名なテーマの本歌取りになっているのはご愛敬だけれども、それはブラームス本人が承知の上でやっていることだ。そして、客観的にみればこちらの方が歌としては優れているではないか。

演奏は誰のが良いのだろう? あまり重くなく大げさでない方がふさわしい。個人的にはクルト・ザンデルリング指揮のライブをよくきいた記憶があるが。

ブラームスは他にもちろんクラリネット五重奏曲や、「ドイツ・レクイエム」、弦楽六重奏曲第1番など佳い曲がたくさんある。また、グールドの弾く「間奏曲集」などを聴くと、この作曲家がいかにメランコリックなロマンティシズムに満ちているかを感じることができる。



チャイコフスキー 「弦楽セレナーデ」

チャイコフスキーがブラームスに会ったとき、相手の才能を認めつつ、「彼にはなんと旋律の創意が欠けているのだろう!」と驚いたという話がある。しかし彼に比べたら、どんな人間だって旋律に欠けていることになってしまう。

チャイコフスキーは旋律の天才だ。旋律の豊富なこと、またその色彩感の多彩なことはほかに比べられるものがいない。明暗のドラマティックな対比、緩急の自在、そして美しいオーケストレーション、どれをとっても、チャイコフスキー以外には出せない特色がある。

にもかかわらず、チャイコフスキーの旋律は、それだけを「ふし」で歌ってもあまり強いインパクトはない。シューベルトの純情な明るさ、ヘンデルの豊かなカンタービレ、フォーレの陶酔感、いずれも単旋律を口で歌うだけで、くっきりと立ち現れてくる自立性がある。しかし、チャイコフスキーの旋律は、あの独特な複数の音色混合の中で初めて香り立ってくるらしい。

その、一つの典型がここにある。弦楽合奏という、ある意味では音色的にストイックな構成にもかかわらず、この深い美しさはどうだろう。また途中にあらわれるワルツの優雅さは。彼ほど楽曲の様式感にたけた作曲家はいない。そして、このメランコリックな劇的な表情。これこそロシア音楽の最良の部分をあらわしていると思う。

ぼくはコリン・デイヴィス指揮バイエルン放送管弦楽団の演奏を、好きでよく聴いている。



フォーレ ピアノ5重奏曲 第2番

この曲はフォーレ晩年の、室内楽曲の時期に書かれた。
フォーレは80歳近くまで生きた、比較的キャリアの長い人だが、老年期から次第に耳が悪くなってきたことはあまり知られていない。同じ時期に書かれた有名なヴァイオリン・ソナタ第2番は、ある意味で評価がはっきり分かれる曲だが、その出来について聴力の喪失に結びつける人もいる。

しかし、この曲のいぶし銀のような美しさはどうだろう。ピアニッシモの微妙で繊細な表情、弦楽とピアノが交錯する音色の美しさ、これが聴力のスランプに悩む人の作品だとしたら、その想像力には敬服する。

そう、フォーレは想像力の人なのだ。それはけっして視覚的なイメージの空想ではなく、あくまでも音像の幻想なのだが。この人に「幻想の地平線」という傑作があるのも偶然ではない。

フォーレのキャリアは長いが、その特徴は驚くほど変わらない。ごく初期の「ラシーヌ賛歌」から、最晩年のこのピアノ5重奏曲まで、一聴すればフォーレと分かる独特の個性が貫いている。その特色は、調性ではなく旋法にもとづく音空間の構成だ。このために、フォーレの音楽にはどこかグレゴリオ聖歌に通じる古風な響きがいつも伴っている。

この曲の第一楽章冒頭のテーマをきけば、5度に飛び上がっていき3度にふわりと舞い降りる旋律の動き自体に、自ら転調を内在させた、長調とも短調とも呼べない変幻自在な姿を感じるだろう。これがフォーレの美なのだ。そしてこの特徴は、他の素晴らしい傑作、「レクイエム」や歌曲の数々にまでいきわたっている。

フランス国立放送管弦楽団員による演奏を、ぼくは愛聴している。



ラヴェル 組曲「マ・メール・ロワ」(ピアノ連弾版)

フランスの19世紀から20世紀初頭にかけての音楽や絵画・建築など文化運動一般には、この国がかつて持った中で最良の部分が結実しているように思う。ラテン文明の北限にあって、中途半端に北方的でいささか独善的なフランス文化ではあるが、この一時期が産み出した果実の数々には、その無重力的な軽さのもつ特性の一番良い部分があらわれている。

その一つの極限がラヴェルの音楽だ。この人の作品を聴くたびに、ぼくは(唐突な比喩ながら)新古今和歌集の美を思い出す。それは洗練の極致であり、複雑に屈折して輝く宝石のようなきらめきである。

西洋古典音楽とは--少なくとも「芸術」として位置づけられるようになった古典時代以降の音楽とは--結局のところ貴族並びに上流ブルジョワ市民階級の音楽である。そして、時代が20世紀に入るとともに、ヨーロッパの階級社会の基盤は水の流れにさらわれる砂の城のように崩れはじめていった。そのしめくくりが二つの世界大戦であるわけだが、そのはざまに書かれたラヴェルの曲は、この文化が持っていた美学と、その裏に隠された感情をあらわしている。

その感情とは、“別に分かってくれなくてもかまわない”という、彼らの階級が内心感じていたであろう憂愁と孤独と優越感の混合である。だから新古今和歌集の美学なのだ。式子内親王や定家や摂政太政大臣由経が、彼らの内心を万人が理解してくれるなどと夢にも期待していただろうか? 

ラヴェルはここで、子どものためのピアノ連弾曲集というスタイルを選ぶ。ラヴェルにとってはもう、芸術家ぶって奇矯さや破格を気取る時代は終わっている。そして、その単純なスタイルの中に、少数の音とぎりぎりの技法的制約の中に、和声のドラマの奇跡を盛り込む。
それは、子どもらと、ピアノ教師によって、小さなサロンの中で弾かれる。そして、その中にこそ、ラヴェルを生みだしたフランス文化の最上の香りが蒸留酒のように閉じこめられている。




J・S・バッハ作曲/ウェーベルン編曲 「6声のリチェルカーレ」

バッハが作曲し、ウェーベルンが編曲(音色変奏)をほどこし、P・ブーレーズが演奏した「6声のリチェルカーレ」を聴くたびに、この曲こそじつは西洋音楽が生んだ最上の音楽ではないか、いや少なくとも極北に位置する音楽ではないかと感じる。

この曲のテーマ旋律はフリードリヒ2世がバッハに与えたものだ。晩年にいたってひたすら頑固に対位法にこだわりつづけたバッハは、この物好きな王様がつくった、半音階的だがあまりフーガ向きではないテーマを元に、ありとあらゆる料理をしてみせる。これが「音楽の捧げもの」という曲集の成り立ちだ。

中でもこの「6声のリチェルカーレ」は、「トリオ・ソナタ」とともに傑作だ。そこには晩年の音楽家だけが持つ空気の希薄な抽象性と、永遠への憧れがただよっている。

これをウェーベルンは、オーケストラを使って音色変奏による編曲をした。元の曲が持つ白と黒だけの線の集合体で描かれた像が、ここではひとつひとつ実在感のある色彩に置きかえられる。それは、黒地のキャンパスにさまざまな細い線のタッチで描き出された奥行きのある音空間だ。そして、そこにはウィーンの後期ロマン派だけが持ち得た、せつなく濃厚なロマンティシズムが見えてくる。旋律の数学的展開だけで作り上げられた人間の感情の深み。これが西欧音楽の極限でなくて、何だろうか。



アルバン・ベルク ヴァイオリン協奏曲「一人の天使の想い出のために」

ウェーベルンとは別の形で、しかし明確に西欧古典音楽の終焉を示した作曲家がここにいる。ベルクの遺作「一人の天使の想い出のために」は、若くして世を去ったアルマ・マーラーの娘のために捧げられている。そして、ここにもバッハの姿が残像のように立ち現れているのがおもしろい。結局のところ、バッハにはじまった西欧の古典音楽はバッハとともに終わるのだ。

この曲は完全5度に跳躍して舞い上がり舞い降りる、不思議な分散和音に似た音階からはじまる。それはオーケストラの異なる楽器に引き継がれ、音色変奏のように展開しながら、やがてアルバン・ベルク独特の官能的で切ない音響世界に入っていく。

後半の2楽章になると、そこにバッハのカンタータ「永遠! 汝恐ろしき言葉」の最終コラールが全小節引用されてくる。短いコラールだが、最初に全音階でFGAHの4つの音が並んで上昇し、非調性的な響きをもたらす。この、非調性的ということが、ベルクを際だたせる大きな特徴だ。

ウィーン古典派が確立したドレミファの長調・短調からなる調性の世界は大きな予定調和的な秩序であった。しかし19世紀末と世界大戦を経るころには、それは大きな桎梏と感じられるようになってしまった。これをうち破るために無調の概念にたどり着いたシェーンベルクが苦心惨憺して発明したのが12音技法である。

ベルクはこの曲でも12音技法を用いている。しかし、その適用は比較的緩やかだ。彼は自在に調性と無調の間を行きつ戻りつする。かれがこの曲に使った音列は、いわばその矛盾の凝縮された形になっており、下から順に長短3和音を2回積み上げて、最後には上記の全音階で締めくくるというものだ。

そして、その音列に従うように、この曲では調性があらわれたかと思うとすぐ消えてしまう。ちょうど亡くなった少女の幻のように。そして、これこそ調性音楽という桎梏が終わった証しなのだった。シェーンベルクは間違っていた。「調性」という体制に対抗するために「無調」という反対物をぶつけても無意味なのだ。それは同じコインの両面にすぎない。調性の反対は、“調性が無い”ではない。じつは“調性が在るか無いか分からない”なのである。そして、ベルクがこの曲で示したのはそういうことだった。

協奏曲の最後は、オーケストラの低音部が5度に下りていく音階を重ねて終わる。冒頭の逆、ちょうどベルクの好きだった対称構造のように。
ヨーロッパ貴族社会と古典音楽の終わりのように。



スティーヴ・ライヒ 「16人の音楽家のための音楽」

音楽をずっと聴きつづけて、なんだか聴き疲れてきたな、少し休みたいな、というとき、この曲を聴く。急に音を止めて、突然の静寂に当惑したくないとき、音楽の『脱感作療法』としてこの曲はとても有効だ。

パルスに似た音が繰り返し続きながら、光りのモアレ現象に似た空間を感じつつこの曲を聴き終わると、いつのまにか心の中が静寂になる。なんだか心が超音波洗浄機にかけられたかのように、余計な情念や夾雑物がすっきりと捨てられて、とても身軽になった気持ちで音の外に出ることができるようになる。

だからといって、この音楽が無味乾燥なわけではない。全くその逆だ。ここにはきちんと設計された、ほとんど濃密といってもいい構成がある。芸術音楽すぎるくらい芸術音楽だ、といってもいいだろう。1970年代後半に、ここまで芸術であること自体すでにほとんど稀な存在の仕方だろう。それがライヒなのだ。

スティーヴ・ライヒはニューヨークに活躍するユダヤ系アメリカ人の作曲家だ。彼は若いとき、テリー・ライリーの「In C」の初演に立ち合って心底度肝を抜かれる。「In C」には楽譜があるが、それは各楽器に与えられた短いパッセージの集合で、各人はそれぞれを好きなだけ何回でも繰り返していい、という風に指示されている。したがって作曲されているにもかかわらず演奏されるたびに異なる曲が立ち現れるわけだ。これはそれまでの音列技法的現代音楽とも、(その裏面にしかすぎない)偶然音楽ともたもとを分かった、真に独創的なアメリカの現代音楽誕生の瞬間だった。

ライヒはライリーの系譜を継ぎながらも、もう少し構成的なアプローチを好んでいる。パルスを積み上げて詩的な空間を導いていく点に彼の特色がある。彼の方法論は古典的であるにもかかわらず、彼の紡ぎ出す音には、ジャズやロックやエスニック音楽の時代と共存し同調していける波動がある。共存する波動、それこそ、古典音楽亡きあとの芸術音楽の姿なのだ。


ワークスペース・白幡

お気軽にお問い合わせください

PAGETOP
Copyright © マネジメントのテクノロジーを考える All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.